Sanskrit

 

この記事では、サンスクリット語とはいかなるものなのか。そして私は現時点でそれをどう受け止め、これからどう関わっていきたいと考えているのか、ということについて述べます。

 

サンスクリット語は、西洋におけるラテン語やギリシャ語に比すことができるインドの古典語です。日本には仏教を通じて伝来し、「梵語」と訳されました。(以下、「梵語」と称します)

今現在はインドでも、極一部の地域や、特定の教育機関などを除いて、日常会話のためには用いられていません。

しかしインドの至る所に存在するヒンドゥー教の寺院に詣でれば、司祭であるバラモン僧たちが梵語で経典や讃歌を唱えるのを耳にすることができます。

また、ヨーガを修行するための道場であるアシュラムでは、朝夕の祈りの時間や、行の前後などにマントラ(真言)を唱えています。

 

「サンスクリット」という言葉には、「洗練された、完璧な」という意味合いがあります。

これは、文法的な観点や音韻論においても、様々な角度から検討することができるでしょう。

しかしこの紹介を簡潔に留めるためにも一々に立ち入ることはせず、ここで一つ実際の音声を聞き、直接その響きをみなさまに体験していただきたいと思います。

 

(涅槃六解の音声)

この詩は8世紀前半に生きたとされる思想家、遊行僧であるシャンカラが幼き頃、自身の師(グル)となる行者に出会った際に、「おまえは誰か」と問われ、その返答として即興で詠んだものだと伝えられています。

本来寂静の境地に安らう「自己」について、6段の詩という形式で語ったことからNirvana Shatkam「涅槃六解」と呼ばれています。

 

シャンカラ・アチャーリヤ(アチャーリヤは導師という意味の梵語で、敬意を表すために用います。)[1]は大乗仏教をはじめ、様々な思想が無秩序に混在していた、当時のインドの哲学宗教世界をまとめ上げ、アドヴァイタ・ヴェーダンタ、日本では梵我一如という言葉で知られている不二の哲学を打ち立てました。

この詩は、その精髄を伝えるものとなっています。

 

内容に深く立ち入ることはしませんが、全体の雰囲気をなんとなく掴んでいただくために、ここに始まりの一偈を、ローマ字化したものと訳を合わせて記載します。

 

manobuddhyahaṅkāra cittāni nāhaṃ

na ca śrotrajihve na ca ghrāṇanetre

na ca vyoma bhūmir na tejo na vāyuḥ

cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham

 

わたしは、思考、知性、エゴ、記憶ではない。

また、耳、舌、眼や鼻(といった感覚器官)でもない。

そして空、地、火、風(といった元素)でもない。

喜びが形をとったもの。わたしとは歓喜、歓喜そのものなり。

 

私は、旅をし始めたばかりのインドでこれを聞きその意味を教わったときに、「こんなに哲学的な内容が、かくも美しい音声で表現され得るのか」と感動しました。

その時はすでにマントラ(真言)を唱える練習を始めておりましたし、梵語の音声に触れる機会は他にもたくさんありました。

それでも、この詩がとりわけ胸を打ったのは、形式と内容が絶妙に相即した美しさがあったからだと思います。

 

もともと私は、大学で真言密教を大成した空海の思想について学んだことがきっかけで、梵語に興味を持ちインドに渡ったのですが、現地で得られたこうした感動の一つ一つが、私をその勉強と習得に向かわしめました。

 

Mantra

 

難解さによって知られる梵語ではありますが、最近は身体技法としてのヨーガ(これを総称してハタ・ヨーガと言います)が広まるにつれ、マントラ(真言)をクラスの前後などに唱える人も増えてきているようです。

 

マントラは、括弧書きしておりますように、日本仏教の伝統では「真言」と呼ばれています。

平安時代に弘法大師空海がその伝統を中国より伝えて以来、日本では主にお坊さん方によって修行の一環として用いられてきました。

一昔前には、在家の者でも少し信心の深い方となると、朝仏壇にお供えものをするときの習慣として、真言を唱えるということがみられたようです(私の曽祖父は日頃唱えていたとか)。

 

「マン」には「心」という意味があり、「トラ」には「守る」、あるいは「解放する」という意味があります。つまり「マントラ」という語は、「心を守る、あるいは解放するもの」と解釈できるでしょう。

梵語の響きには、唱えたり聞いたりしているだけで、心の波長を整えてくれる働きがあります。

これは洋楽を聞いていて歌詞がわからずとも気持ちが高揚したり、落ち着いたりするようなものです。

音は波であり、異る音は異なる形の波を生じます。

これは純粋に物理的な現象ではないし、純粋に精神的な現象でもありません。その二つが分かち難く作用することによって効果が現れてくるのです。

 

結びに

私は、何の因果かは一体知りませんけれども、こうして梵語を学び、それでお経を詠んだり、ヨーガの修練のお供にマントラを唱えたりすることで、深くインド古典の世界に関わる人生を送るようになりました。

これは単純に、その文化や思想に魅せられたからでもありますが、実際に「役に立つ」という実感があるから続けられている、という面も少なからずあります。

「役に立つ」という言葉はくせ者です。今の世では、「役に立つ」というと、どうしても直ぐに金銭になったり、あるいは生活を便利にしてくれたりといった即物的なことを思い浮かべがちです。もちろんそれが一概に悪いわけではありません。

しかし私がここで「役に立つ」という言葉で示したいのは、まず第一にそれが私の精神生活を「より豊かに、明晰に、安穏にしてくれた」という意味です。

マントラやお経を詠むことには瞑想的な効果がありますし、梵語を通じて触れるインドいにしえの哲学や文学には、移ろいやすい現代の世界にも通用する、真理のようなものが見え隠れしているようです。

特に私たち日本人にとっては、インド哲学の考え方には馴染み深いものがあるのです。

それは日本文化の深層にしっかりと仏教が横たわっていることを意味します。私は実際に、インドに行くようになってから日本や中国の古典がもっと理解できるようになったという実感を持っています。

もちろん、インドにはまだ牛に鋤を引かせ、その糞を燃料に火を焚いて暮らすような近代以前の暮らしが、ごく普通の農村の景色として残っていたりする。そういうことにも由るのでしょうが、それ以上に、そういった生活と密着する精神的風土が、古典世界の人々のあり方を偲ばせるのだと思います。

さて、語り始めるとついつい長くなってしまいますので、この辺でまとめます。

私がサンスクリット語、またはそれによって伝えられてきたインドの文化をみなさまとシェアしたいという思いは、主に以下二つの理由によります。

  • 目まぐるしく移ろう現代社会の拠り所となり得る、いにしえの知恵が詰まったインド古典世界の案内人となること。

  • 近頃一般的な広がりをみせているヨーガを入り口として、出処を同じくして共通項の多い仏教の世界に触れてもらい、日本の精神的風土への理解を深める一助となること。

 

古典というものはなかなか一筋縄でいく相手ではありません。

自国の古典ですら手強いのに(中学高校の古典で泣かされた人も多いでしょう)、外国のものとなると生半可な覚悟と労力では学びきれません。私はそれを、自分の能力と与えられた時間が許す限り、うまく噛み砕いた上でみなさまにお伝えしたいと思っています。

拙文に長々と付き合ってくださり、ありがとうございました。

 

[1] 高位の密教僧を指す呼称の阿闍梨(あじゃり)は、この語の音写です。

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