Yoga

 

この記事では、「ヨガ」、あるいは「ヨーガ」と表記されるサンスクリット語(以下「梵語」と称します)の言葉について、それは一体どんな意味内容を持っているのか、ということを述べます。

 

1、「ヨガ」あるいは「ヨーガ」という表記について。

 

まず、「ヨガ」という日本における表記ですが、サンスクリット語には、日本語の「お」に当たる短母音は存在しません。oという母音は、全て長音になりますので、日本語で表記をするならば「ヨーガ」とした方が、原語の音声により近いということになります。

 

かといって私は、『「ヨガ」ではダメだ!「ヨーガ」にせよ』ということを申したいのではありません。

言葉が時と場所を超えてその姿を変えるのは、ごくありふれた、自然な現象であって、「その一々を原初の形にせよ」、というような復古主義的な態度をとることは、本意ではありません。

実は、この「ヨーガ」という梵語の言葉は、日本には奈良時代にすでに伝わってきています。

奈良に観光に参りますと、大体お決まりのコースとして多くの方が詣でる興福寺というお寺があります(三面六臂の阿修羅像などが国宝として知られています)。

興福寺は、数ある仏教宗派の内の一つ、法相宗の大本山ですが、この法相宗が依拠する教えの一派を、「瑜伽行唯識派」といいます。読み仮名をふりますと、「ゆがぎょうゆいしきは」。この「ゆが」という言葉は、梵語の「ヨーガ」が中国でなまったものです。意味を釈しますならば、「ヨーガを行ない、唯識という教えに依る派」ということになります。

何が言いたいのかと申しますと、このときすでに「ヨーガ」という音は「ゆが」となまってしまったのです。ですから、音声の変化は今に始まったことではありません。

 

それでも私が、「ヨーガ」という表記をあえて用いるのは、学んでいる梵語の原則に準拠したい、という思いがあることを、読者のみなさまには予めご了承いただきたいと思います。また、私があえて「ヨガ」という表記を用いるときには、日本における一般的通念としての「ヨガ」という意味合いが含まれます。このことについては次項以降で述べます。

 

2、「ヨガ」という一般通念について

 

「ヨガ」という言葉が日本のマスメディアや、普通の会話として用いられる場面を観察しておりますと、そこには以下のような意味が含まれているようです。

 

「身体を使って様々なポーズをとることで筋肉や骨の運動を促し、美容や健康の増進へと導くインド発祥の体操法」

 

まず、「身体を使った様々なポーズ」について。

「ヨガ」といえば、「猫のポーズ」や、「鋤のポーズ」、あるいは「木のポーズ」などのように、なにかとポーズをとらせるものだという理解が一般にあると思います。

この一つ一つのポーズを総称して、梵語では「アーサナ」と言います。

例えば、「木のポーズ」を原語に直すと、「ヴリクシャ(木)アーサナ(ポーズ)」となります。

 

しかし、「ヨーガ」の行には、本来、こういった「アーサナ」だけではなく、呼吸法である「プラーナーヤーマ」など、様々な方法が含まれています。

つまり上記の「身体を使って様々なポーズをとることで筋肉や骨の運動を促し、美容や健康の増進へと導くインド発祥の体操法」は「ヨーガ」本来の定義としては不足しているということです。それでは、「ヨーガ」とは一体何を指すのでしょうか。

 

3、「ヨーガ」の定義

先ほど述べました一般通念としての「ヨガ」の意味を除いたとしても、「ヨーガ」とは何かという問いを、実践する人に投げかけたならば、その答えは三者三様であることが予想されます。

それは、「ヨーガ」という言葉がどんな意味でもありうるということではなく、それが抽象的な意味を持っていて、具体的な動作や状態のことを必ずしも示さないというところに原因があります。

こういった場合に有効なのは、やはり歴史に問うこと。語源を調べてみることと、古典を紐解くことです。

 

(ⅰ) 「ヨーガ」の語源

 

yogaは√yujという語根から作られる言葉です。この√yujという語根には、「結びつける、繋ぎとめる」といった意味があります。もともとは鋤や車を牽かせるための一対の牛を、首のところで繋ぐ「軛」を意味する語で、同じ語源から発生したものに英語のyoke(軛)があります。またラテン語のjungereを経由して発生したjoin(繋げる)も同語源です。

こういった事実から、「yogaはunionである」、つまり一つになることだ、という定義が導き出されました。

 

ではyogaによって一つになるものとは何でしょうか。この問いには様々な回答がありうると思います。

 

まず一つ、現代の私たちにもわかりやすいのは、心と体の統合でしょう。

高度に発達した情報社会を生きる私たちは、身体的感覚よりも知識や情報に頼るようになりました。

その結果使われることが少なくなった身体的感覚は退化し、その声を聞くことが難しくなってしまいました。

「アーサナ」や「プラーナーヤーマ」、「瞑想」といったヨーガの行は、外界ではなく内界、身体や心の感ずるものに意識を向けるよう私たちを促します。

身体の状態によってどう心のあり方が変化するのか、あるいは心の状態が身体にどう影響を及ぼすのか、といったことが少しずつ分かるようになってきます。

 

しかし、「心と身体の統合」を「ヨーガ」の定義とするのは、表層的な理解にとどまってしまうことを意味します。

ここから先は、哲学の領域です。

私一人の説明では心もとないので、ある古典に登場してもらいましょう。その書物の名を「ヨーガスートラ」といいます。

 

(ⅱ) ヨーガスートラ

 

「ヨーガスートラ」は、古代インドのパタンジャリという人が、それまでに数々の師から弟子へと、何世代にも渡って口伝で伝えられてきた教えを体系立て、一つの書物として編纂したもの[1]だと言われています。

日本では、大阪大学のインド哲学教授であった佐保田鶴治氏の「ヨーガ根本教典」という訳名でも知られています。

インド国内外のアシュラム等の機関でヨーガを学ぶ人は、必ずといっていいほどこの書物について案内を受けます。

それはこれが、「ヨーガ」の方法とその目的を、最も整然とした形で伝えているものだからです。

 

それでは早速、この「ヨーガスートラ」第1章2節から「ヨーガ」とは何かを定義する一文を引用したいと思います。

 

ヨーガは、心のはたらきの止滅である。[2]

 

この文の解釈は、煎じ詰めようとすればキリがないほど難しいものですが、私がインドのアシュラムで教わったものを一つご紹介いたします。

 

「心のはたらき」という言葉がありますが、これは梵語のcitta-vrtti(チッタ・ヴリッティ)の訳語です。

チッタは心を表します。さてヴリッティについてですが、喩えを使って説明してみましょう。

 

波風の立たない、凪いだ水面を想像してみてください。

覗き込めば自分の顔がそっくりそのまま映り込みます。まるでピカピカに磨かれた鏡のようです。

そこに小石を投げ入れます。すると波が立って水面が揺れます。

小石を投げ続けたら、たくさんの波が干渉して複雑な波紋を作り、先ほどまで見えていた自分の顔が、全く見えなくなってしまいました。

 

波がヴリッティ、水面は心の比喩となっています。

波が入り乱れて、心が本来の明晰さを失ってしまい、物事のあるべき姿が見えなくなってしまった状態。

これが思考や感情のパターン、習性(波紋)に心を曇らされている普段の私たちです。「ヨーガでない」状態です。

 

対して、凪いだ水面。澄みきって、一点の曇りもない、鏡のような姿。

日本語には便利なことに「明鏡止水」という言葉がありますが、まず「ヨーガ」という言葉の意味の一つには、この「明鏡止水」という言葉によって表現されうる境地、があるということを申し上げておきます。

 

いやいや、それでは「アーサナ」や、呼吸法である「プラーナーヤーマ」はどこに行ってしまったのかとお思いの方もあるでしょう。実はこれらの行法は、「ヨーガスートラ」において、先に述べました「ヨーガ」の境地を達成するための方法として位置づけられるのです。

「アーサナ」[3]、「プラーナーヤーマ」は他の6つの実践[4]と合わせて、「ヨーガの八支則」と呼ばれています。その原語が「アシュタンガーヨーガ」[5]です。

 

しかしこれら「アーサナ」や「プラーナーヤーマ」を「アーサナヨーガ」あるいは「プラーナーヤーマヨーガ」と称することはありません。「ヨーガスートラ」においては、むしろこれら一つ一つの実践は、特定の境地という意味での「ヨーガ」に至るための階梯と解すべきであり、それ自体が「ヨーガ」と呼ばれるべきものではありません。

しかし現在では、インドも含め世界中で「プラクティスヨーガ(ヨーガを実践する)」といえば、『「アーサナ」や「プラーナーヤーマ」、あるいは「瞑想」といった行を実践をする』といった意味で捉えられています。

この語法上の変遷について考察することは私の手にあまることですので、今後の学習と、諸氏の意見を俟ちたいと思います。

 

さて話を戻します。

「ヨーガ」は何と何の統合を指すのか。

まずは、先ほどご紹介した「ヨーガスートラ」第1章2節を思い出していただきます。

 

ヨーガは、心のはたらきの止滅である。

 

3節に進みます。

 

そのとき、観る者はそれ自身の本然に安立(あんりゅう)する。

 

ここで言われている「本然」という言葉は、梵語svarūpaの訳です。svaは「それ自身の」を意味する接頭語で、rūpaは「形」という意味です。

 

 

「あなたは誰ですか、何者ですか」という問いかけがあります。

 

「私は○○という会社の、××という部門で働いている、△△というものです」

「私は※※という、@@を生業としている家の跡継ぎです」

「私は楽天的な人間です」「暗い人間です」

「〜が好きです」「〜が嫌いです」………

 

ふつう、自己紹介するときには、以上のような事柄を列挙して、自分を説明しようとしますね。

ですが、こういった職業、生まれ、性格や身体的特徴は単なる「付属物」に過ぎず、「真実の自己」ではない、という考え方が、インド哲学には広く行き渡っています。

「真実の自己」とは、この一節においては「観る者」に相当します。

梵語ではプルシャ(純粋精神)、あるいはアートマン(真我)と呼ばれる概念です

「真実の自己」という言葉が出てまいりましたが、その内容についての議論はここでは差し止めておきます。

なぜならそれは言語による記述の及ばない領域、つまり本来の意味で「言語道断」、という前提がインドの主立った思想にあるからです。

そんなものが「ある」のか、「ない」のか、といった議論も可能ですが、それをしていると弥勒菩薩の下生[6]まで時間がかかりかねないので、私がなんとかして龍樹菩薩の『中論』[7]を理解するまで勘弁していただきたいと思います。

 

肝心の問題は、私たちが以上のような「付属物」を「自己」なるものと同一視して、それを基準にして人生の価値を測ってしまうことです。

それは「真実の自己」を、形の合わない鋳型に無理やり押し込もうとするようなものです。

なぜそれが問題なのか。「付属物」は、無常なるものだからです。そしてその価値も、この世にあっては相対的なものだからです。

あなたの今している仕事が、10年先も20年先も今と変わらないでいるという保証がどこにあるでしょうか。

AI技術の勃興が盛んに謳われる当世ですが、数十年もすれば現今存在している多くの仕事が、人間ではなくAIに担われるようになると言われています。

働き方やその内容は必ず変わっていきます。それは時代が移り変わっていく必然であり、如何ともしがたいものです。

また、昔に比べれば少ないかもしれませんが、家柄に自らのアイデンティティを見出す人もいます。

しかしそれにも栄枯盛衰はつきもの、『平家物語』を持ち出さずとも、盛者必衰の例は枚挙に暇がありません(その逆もまた然りでありましょう)。

 

身体的特徴や性格のようなものは、もっと自信をもって「私」あるいは「私のもの」といえるものだ、と言う方もあるかもしれません。しかしそれも今のまま常にあり続けるわけではありません。

それに、そこに見出される価値というものは時と場所に応じて変わってくるものです。平安朝の美人が現代の美人ではありません。几帳面な性格が仇になって細かいことにうるさいと言われることもあるでしょう。楽天的な性格も時と場合によっては軽率と扱われてしまうことがあるでしょう。

このように、それらは全て相対的なもの。無常とは、時間についてのみ言われることではありません。

空間と時間という次元に縛られて存在しているもの全ては、須らくこの無常の法則を免れないのです。

ですから、そういった「無常」のものに、自らの価値を任せるのは、どこかで危険を伴います。

杭を打つ時は、しっかりとした地面に打たなくてはならず、船をつなぐ桟橋が、嵐で流されるようではいけないのです。

 

「ヨーガ」の目標は、そういった「無常」なる「付属物」から自己を解放し、その人本来のありようへと導くことです。それを、自分を「真実の自己」と結びつける、と表現することもできるでしょう。

 

また、解放するといっても、それを無理やり断ち切ることは難しいものです。

一刀両断、というよりは、丁寧に解きほぐす、という表現のほうが近いかもしれません。

そのためには、「自分」とその「付属物」がどう結ばれているのかを理解してあげる必要があります。

無理に引っ張ったりすると、余計にこんがらがってしまいますから。

そしてその結び目を見極めるためにも、明晰な心、「明鏡止水」の状態が、どうしても必要になってくるのです。

 

4、まとめ

 

それでは、この辺りでまとめに入らせていただきます。

 

「ヨーガ」とは、「心のはたらきの止滅である」。(明鏡止水の境地)

 

そのとき「真実の自己」は、その「本然(ありのままの姿)」に安立する。

 

一般的通念としての「ヨガ」は、『ヨーガ・スートラ』が語る「ヨーガ」とはほとんど共通項のない別個の概念になってしまったことが確認できたと思います。

もちろん、「ヨーガ」の八支則にも含まれる呼吸法や瞑想といった行を修めるためには、その基礎となる身体の健康は欠かせないものです。

そういった意味では、「ヨガ」が「ヨーガ」を達成するために資する側面はあるでしょう。

 

しかし重要なのは、表面的な「美容」や「健康」を目指す前に、自分自身を知ることだと私は考えます。

同じ一つの服が全ての人に、どんな場面でも似合うわけではないのと同じように、誰がいつ食べても健康に良いなんて食べ物は存在しません。

それよりもまず自分にはどんな食べ物が必要なのか、それも時と場合によって変化しますが、それを感じることができる感受性を養うべきではないでしょうか。

そしてはそれは究極的には外部から与えられた情報ではなく、自分自身の心と体との不断の対話によって初めて得られるものだと思います。

これは食にのみ関することではありません。五感を通して入ってくる外界や、職業や友人関係といった社会的状況も含めた環境全てについて言えることです。

 

「ヨーガ」の行は全て、その「対話」の助けとなってくれます。

「ヨーガ・スートラ」を引用して述べた部分は、多少抽象的なお話になってしまいましたが、誤謬を恐れずにあえてその要点を述べるのであれば、

 

「ヨーガ」とは明鏡止水の「境地」であり、

それによって自分自身を知るための「方法」でもある。

 

と言えましょう。

 

偉そうなことを申し上げましたが、私は愚昧な凡夫に過ぎず、真理を見出した覚者などでは到底ありません。

しかし、「ヨガ」が本来の「ヨーガ」の意味からあまりにかけ離れたものになっている現状で、「ヨーガ」について、古典的な解釈から私が思うところをシェアし、みなさまと共に考えていきたいという思いで以上のような文章をしたためました。

もともと、哲学としての「ヨーガ」は非常にきわどい問題を孕んでおり、語句の解釈など納得のいかない方もおられるかもしれません。

そういったことにつきましては、忌憚のないご意見、ご批判など、CONTACTページからいつでもお待ちしております。

 

最後に、日本密教において最も重要な経典である『大日経』から、締めくくりとなる言葉をご紹介したいと思います。

「如実知自心」、書き下せば「実のごとく自らの心を知る」となります。

それは、「自らの心の真実の姿を見極める」、とも言い換えることができるでしょう。

 

『大日経』の注釈書である『大日経疏』にはこうあります。

「問うて曰く、若し即心是道とは、何んが故にぞ衆生は輪迴生死し、成仏を得ざるや。答うて曰く、実の如く知らざるを以ての故に。」

問う。もし心そのものがそのまま道(真理)であると言うならば、なぜ衆生は輪廻の内に生死を繰り返し、仏となることができないのか。

 

答えて言う。(その心の)ありのままの姿を知らないからである。

拙文に長らくお付き合いくださりありがとうございました。

 

 

[1] Swami Niranjanananda Saraswati “Four Chapters on Freedom: Commentary on the Yoga Sutras of Patanjali” Yoga Publications Trust (2012)

[2] 中村元『ヨーガとサーンキヤの思想』(中村元選集[決定版]第24巻)

[3] 『ヨーガスートラ』には「アーサナは、安定して快適であるということ(Sthira-sukham asanam)。」という記述があるのみで、特定のポーズへの言及はありません。今日行われているような様々なポーズが史料に現れるのは、15世紀の『ハタヨーガ・プラディピカー』からです。

[4] 1、制戒(ヤマ)2、内制(ニヤマ)3、坐法(アーサナ)4、調息法(プラーナーヤーマ)5、制感(プラッティヤーハーラ)6、総持(ダーラナ)7、禅定(ディヤーナ)8、三昧(サマーディ)

[5] この「アシュタンガーヨーガ」は、一般的に使われている、「パタビジョイス氏を創始者とするヨーガ実践の一流派」という意 味ではありません。繰り返すようですが、もともとは、「ヨーガスートラ」に著されている「ヨーガ実践の八部門」のことを指します。この問題については、また記事を改めて述べたいと思います。

[6] 56億7千万年後

[7] 「空」を哲学・理論的に基礎づけ、後の大乗仏教の発展に著しい貢献を果たしたインドの僧龍樹(梵名ナーガールジュナ)が著した書。「非有非無(あるでもなく、ないのでもない)の中道(月称の註による)」について説かれている。

  • YouTubeの社会のアイコン
  • Twitterの社会のアイコン
  • Instagram Social Icon